2017年4月9日日曜日

酔っ払いの人生

ベロンベロンに酔っぱらうほど、仕事に没頭して

ベロンベロンに酔っぱらうほど、熱狂的に遊び

ベロンベロンに酔っぱらうほど、瞬間瞬間にワクワクする

「酔っ払いの人生」それが今、此処に生きるということだと思います

「人生の酔っ払い」には酒もドラッグも全く要りません

もう既に酔っていますのでハイ・・・・・ウィ


2017年3月27日月曜日

ハートが自己愛で満たされたら一体どうなるのか!?

幸せになる為に、まず最初にするべき事は
「自己愛や自尊心でハートを一杯にする」ことだと思います。


自分自身のハートに

「自分は宇宙にとって、唯一無二、
  かけがえないない、貴い存在であるんだ」

という、自己愛や自尊心を、来る日も来る日も
一滴も零さず注意深く、気長に注いでいくと
やがていつの日か、それがハートに満ち満ちて
満タン状態に溜まります。



そしてある日、最初の一滴が零れ落ちます。
ハートから零れ落ちるその雫の軌跡を観て
初めて本当の自分以外の世界を識る事になります。
それはどういうことかと言いますと・・・・


見事に咲き乱れる花々。
  その花達が表現したがっていた
   その形状に気付けます。


また自ら芳しく香って
生き物たちを導きたがっていた方向に気付けます。


美しく奏でる鳥達のミュージカル。
「生命の賛歌」の歌詞がはっきり聞き取れます。


甘く柔らかい果実の味が
「世界中の善意が凝縮された結晶」であることを
体全身でじんわり感じます。


雨も風も暖かい太陽の光りも、星の瞬きも
全部「慈悲」で構成されているだなと識り
思わずひざまずき涙します。


芋虫が蛹へ、蝶へと姿を変える事で
身をもって見せて教えてくれる。
その究極の生き方の真意に気付けます。



身体の中心を貫く激しい白色の光の輝きで、
眩しすぎて、もはや目を閉じていられません。


世界中のありとあらゆる存在たちが
輝くような満面の笑顔で順番にハイタッチしてくれます。
そして延々と「愛してるよ」「ありがとう僕もだよ」の
挨拶の嵐が続きます。



今まであんなにヒヤヒヤ・ドキドキして
泣きわめき、怒りに震え、怯えた人生が、
昔作っておいて、すっかり忘れていた
手の込んだ自作のコメディだったんだ
というネタバレに腹を抱えて大笑いします。


すべては 「自己愛や自尊心でハートを一杯にする」
ことから始まると思うんです。



2016年12月13日火曜日

誰にも迷惑をかけずに安らかに死ぬ方法



生きるのが辛くて、もう疲れた。死にたい。消えてなくなりたい。でも家族に迷惑かけたくない。「誰にも迷惑をかけずに安らかに死ぬ方法」があれば・・・・あります。でもその前に残念ながら、あなたは既に生きていない。生きた人間の目をしていない。死ぬためには、もう一度生きる必要があります。


死にたい
死ぬしかない
死にたくなる
死ぬには
死ぬに死ねない
死ぬにはどうしたらいい
死ぬにはどうすればいい
死んだらどうなる
死んでしまいたい
消えたい
消えてしまいたい
消えてなくなれ
逃げたい
毎日がつまらない
毎日が楽しくない
毎日が辛い
生きるのが辛い
生きるのがめんどくさい
生きるのが怖い
生きるのが下手
生きるのがしんどい
生きるのが苦しい
生きるのが疲れた
生きるのが嫌
生きたくない
生きていたくない
生きていても楽しくない
生きていても意味がない
生きていても辛いだけ
生きていてもしょうがない
生きることに疲れた
自分なんて
自分なんていらない
自分なんて死ねばいい
自分なんていなくてもいい
自分なんて嫌い
楽しいことがない
面白くない
辛い
疲れた
いいことがない
たすけてたすけてたすけて
しにたいしにたいしにたい
なぜ生きる
なぜ生まれてきた
何もない
何もしたくない
やる気ない
やる気なし
やる気なくなった


2014年10月9日木曜日

在家仏教とは

問います。
与那観!坊さんってどう?日夜、酒肉を貪ってSEXに興じて、さして教学もなく、俗人から仏道に関する質問されても逆切れしたり、逃げたり・・・ってそれ、ただの法事屋の禿げ頭ですよね。そんな人たちが本当に仏教界に必要なんですか?今や仏教学の知識もグーグル先生に聞けばいいし、これからの仏教はやはり在家仏教が主流だと思うのですがどうですか?




 答えます。

あはははは、「在家仏教」その言葉自体が既に自己破綻していますね。「病人医療」「患者医学」と言っているのと変わりません。病人に医療が施せるなら最初から「病人」と「医師」は不要ですね。


第二点目、教主釈迦牟尼世尊、竜樹菩薩、天台智者大師、伝教大師、日蓮大聖人、各々二祖、三祖・・・・全部僧です。僧を否定するなら教主から否定することになりますから教えと教団自体が成り立ちません。





あとはあなたの価値観の問題です。あなたが「仏法」を信仰としてではなく単に東洋哲学または歴史文学的な自己啓発ととらえるならば、あなたにとって僧は不要かも知れません。


但しその際はそのあなたの信仰体系を世間に「仏法」「仏教」と決して名乗ってはいけません。「仏法風私見」「仏教的私見」と自由に名乗って下さい。それは仏の教えではないからです。仏の教えで無いものを仏の教えと偽る事により、後から来る何も知らない求道者が歩むべき本来の道への障害となって極めて大きな罪になります。求道者を迷わせる行為は魔の所為と呼ばれます。そのことを言論の自由、表現の自由とか言わないで下さい。暴言の自由や虚偽の表現の自由はありません。




しかし「仏法・仏教」とかの表現を回避するなら全く自由です。○○法、△△教とか、あなたが自負する優れた信仰体系なら、何一つ問題ありません。何も敢て古めかしい仏教を引き合いに出す必要もありません。自信を持って堂々と○○法、△△教、□□宗と名乗って下さい。






じゃあ、なぜ敢てそんなに仏教にこだわるのですか?自問して探求してみて下さい。結局それはあなたが仏道の真の求道者だからなのです。ですから是非、正直に正法正師にご縁下さい。正直に願っていればきっと遭えます。あなただけの運命の正法正師に。そうすれば一切の疑問が嘘のようにスッキリ晴れ渡ります。何故なら正法正師が仏様にお目にかかる機会をあなたの為に作って下さるからです。

2014年1月19日日曜日

五戒って何?

与那観。質問!五戒を破ることは悪いカルマを作るってことですか?
例えば酒を飲みすぎるとか。



いやぁ全くホント!そのとおりです
逆に言えば、こうして私達が聖なる五大要素「地・水・火・風・空」に
育まれ五体健全で、宇宙法界と親しく語り合って、付き合っていけるのも
五戒を貫いて護り通して得た善根功徳なのです

カルマの法則は実にシンプルです
たった一つの公式しかありません

「受けるもの=与えるもの」

これだけなのです!!!


生命など軽いものだと思って気軽に
いきとしいけるものを殺す者は
宇宙法界にコイツの生命は軽いものだと
思われて虫の様に簡単に殺されます


真理を尊重せず。気軽に嘘を付く者は
宇宙法界にコイツは嘘つきだから与えるものは
嘘でいいやと判断し、本当の事を誰も教えてくれません
オオカミと少年のようです


欲望のまま、罪の意識も無く平気で他人からモノを盗みとる者は
宇宙法界から「コイツは泥棒だから、コイツの持ち物は世界の共有財産だ」
ということで、誰も一切所有権を認めてくれません
人も物も金もサーっと指から零れる砂の如く消え去ります


欲望のまま、平気で他人の妻や夫を姦通する者は
宇宙法界から信義則や契約関係を無効扱いされます
宇宙法界はいつも彼・彼女の描く一切の期待を裏切続けます
全然思惑通りに事が運びません
宇宙法界からの信頼を失ったからです


困難に立ち向かわず、魂の向上も願わず、
怠惰に刹那な快楽に溺れ、酒に酔いしれる者は
宇宙法界は酔っ払い専用の儚い夢のような虚しい人生を用意してくれます
えっ?ん?耳が痛いですか?何で?

全然大丈夫ですよ!
それすら全部、夢ですから!

あなたは「夢」ではない 

じゃないですか!




2013年3月31日日曜日

悟り(覚り)って何?


与那観、さとり「SATORI」とは一体何ですか?
またそれによって生活がどのように変化しますか?




結論から言うと時空を超えます。


なぜなら達成後の自分自身と表裏一体に同居するからです。
達成感をリアルにするための時間であり空間でありますから
達成後との同居には凝った演出は不要となります。

そのことにより世界宇宙法界の森羅万象万物と

切っても切れない、強く深い信頼の絆が構築されます。


そのことにより、降り注がれる全ての出来事は

何ひとつ自分の本意と矛盾なく旨くいきます。

爽快に軽やかになります。

ワクワク楽しくなります。

煌めくほど美しく映ります。


・・・・・・・



仏様は本当に素晴らしい船頭さんですね

その船は何万何億人をも乗船できる

超大型豪華客船なのですね。

正に大乗と言うが如しですよね。

さて、では一体何処へ連れて行って下さるのでしょうか?

そうですね彼岸ですね。じゃ彼岸て何処ですか?

西方極楽浄土ですか?

カイラス山ですか?

聖地エルサレムですか?

いえいえ実は「本当のあなたの家」に帰るのです。







あの時、あなたは街をちょっとブラブラ歩こうと玄関を出て

美しい華を見て心奪われ、美しい鳥の声に心奪われ

いい匂いへとどんどん世界中を冒険しました

冒険に飽きた或る時、振り返ったら

帰り道をすっかり忘れてしまっていました

やさしい家族、あたたかい布団を思い出すと

心細くなり目の前が真っ暗になります

するとどこからともなく仏様は現れます

「さぁいっしょに帰ろう!」と大舟に乗せてくれます

実は仏様とは無明の酒に酔ったあなたを迎えにきた

代行運転手さんだったのです(笑







舟は最短距離の航路で全速力で家に向かいます

すると船内にはいっぱい人がいて賑わっています

みんな同じ境遇なのですぐ打ち解けあい友達になります

楽しい仲間たちの語らいはワイワイ朝夕延々続きます

仲間、語らいとくれば・・・そう、また酒です

あなたの住む町の港に舟が着いても

酔いつぶれたあなたは知らん顔して一向に下船しません

「私の家は此処ではありません」と言い張ります

仏様はこの大船はあなたの家の玄関先までは行けませんよ

あなたの住む町の港で降りて、桟橋から道へ真っ直ぐ歩いて

気を付けて家に帰りなさいね

でもあなたは「私の家は此処ではありません」と繰り返すだけ

仏様が酔った衆生を救済するその救済手段に

今度はまた酔っちゃうわけなんです

もう完全にアルコール中毒ですね(笑






それでも仏様はキレもせずにっこり笑って

「じゃぁ 一旦船に戻りましょう。

先に他の人の町に届ける間にゆっくり、

甲板で爽やかな潮風を受けて酔いを醒ませばいいから。

さぁもう一度、ワクワクする旅を続けましょう」

やはり流石、仏様は太っ腹で慈悲の塊です。

あなたの自発的な意思が起こるのをじっと待って下さるのです。

あなたは終に仏様の深い慈悲を識り、すっかり酔いが醒め、

次の航海で笑顔で友と別れを告げ舟を後にします






実に宗教とはこのようなもので

乗下船するべきベストタイミングというものがあります

いつまでも宗教団体に所属し続ける事は

実はその団体の祖師の意には沿わない事なのです

きつい言い方をすれば、いつまでも病室に留まる難病患者

延々留年を続ける不良学生、

終身刑の囚人と余り大差がありません






でも乗下船するべきベストタイミングを逃したとしても

次の良い波も必ずありますからご安心を

常にあなたのベストなタイミングで物事が起こるようになっています

何故なら全ての仕掛け人はあなただからです






ところが舟に残った酔った友の中に必ずこう言う者がいます

「下船する者は自惚れ者だ。

だってそう簡単にこの度のキツイ酒は醒めない(笑)

醒めてないのに醒めたというのは自惚れ者だ」と

でも下船者には実はそれが

舟を降りるベストタイミングであったという重大な証拠

があるのです。これは残る友には絶対知り得ない事実です。

それは・・・・・


下船のシーンの続きです。

感極まって舟を降りた瞬間、振り向くと

あの船も、仏様も、友達も、海も、桟橋も何も無かったです。

目に入るものは自宅の部屋の壁天井だけです

実は初めから一歩も家を出ていなかったのです

この時点であの冒険全体が夢だと識ります

この時この世の全ての仕掛け人が自分自身であると自覚します

仏様とは自覚された後の高次の自分が時空を超えて

自覚前の自分にヒントを与えに来た今の自分自身と

同一人物に間違えないと強烈に自覚します。

そこには自他、因果の隔たりが完全に滅失し混然一体となります

時空自体が冒険の為の凝った演出だったからだと識るからです

覚りとはこのようなものだと私は思います



続き(まとめ)

SATORI(覚・悟)とは
「私」が覚後のハイヤーセルフ(高次の自己の存在・本果)と同居するという事。
(イツモ ソバニ イル ノ ジカク)を識ることからはじまります。

そして、そのことは同時に
「私」のハイヤーセルフにとっては覚前の素の自己(本因無作)と同居することに
相当するんだ。という大逆転の大いなる真実にハタっと気付くのです。

召集を掛ける者(生)と掛けられる者(死)。
客体(世界)とは主体(私)にとっての客体(世界)なのです。


「覚りたい者」は「覚らせたい者」と「覚り」を引き寄せるのです。
他の2者にとっても同じ構図がそこに働きます。
仏法の三身三諦三観、基教の三位一体の3とはこの3なのです

道の云う1、2、3とはその1元、2元、3元と階梯の次第を指すわけです。
そして3は又即1、唯一大事(ワンネス)へと帰結する。
人生全ては「1」が「1」と識る為の壮絶な冒険だったわけです



2012年7月29日日曜日

今ここを生きる生き方とは


与那観!よく世間では「引き寄せの法」なるものがあって、願いは必ず叶うと信じて、日夜唱えるように、勝利を強く思いを魂に刷り込んでも、一向に勝とうとして勝てないのは一体、何故でしょうか?





そもそも「勝とうとする」「勝ちたいと願う」ことは、「現在私は勝利していない。つまり敗北しているか或いはて勝ちも負けも無しのノーマルな状態だぁぁぁぁぁ!」と、窓開けて大声で空に向かって叫んで宣伝していることに外なりません。


ですから何らかの努力を積んで、「現在の自分は勝利に値しない、欠乏した現在の自己」を補填し、円満な状態に成長し、将来の自己完成という遠いゴールを目指さなくてはならないと、常々思って努力しているのです。


そして未来のある時点の何処かで、ステージをクリアするように順々に段階的にそれが達成されると想定しています。ところが未来とは「未だ来ない」と書き、まるで逃げ水や蜃気楼の如く、行けばまたその先に見えるといった、抽象的な思考の幻想に過ぎません。全く実態がありません。自分の心は実体なき架空の未来、「いつかどこか」に魅せられて、そこに心が行っちゃってるのです。


でも過去に行っちゃってる人は最も重病です。「過去は良かった」というセリフほど、虚しい矛盾はないでしょう。過去が良かって、なおかつ今が悪ければ、結局過去の選択が悪かったということです。病気の原因は健康な時に生成されます。それらは今此処に無い。今此処この瞬間に生きてないを証明しています。


実際の五感が発動し、

「体験」が生じるのは、今此処、この瞬間の一点のみ

であるにもかかわらず、今此処にない。我が心は「いつかどこか」に夢遊病の如く彷徨っています。

心が今此処にないから体験が無く、

体験が無い故に情熱が無く、

情熱が無いが故に歓喜が無く、

歓喜が無いが故に感謝が無い、

感謝が無いが故に宇宙のサポートが無い、

サポートが無いが故に終に事が成就しない

わけです。


では今此処を生きるとはどういうことでしょうか?
先ほど申し上げた真逆を生きればいいのです。まず、

今此処に自分にとって必要なものの全てが揃っていること、

今此処に無いものは自分にとって不要であると、

実体のない過去や未来やどこか遠くの幻想を全て手放します。

今、ここで、この瞬間のレコード針を慎重に置くように、

レンズで太陽光を集め紙をボッと燃やすように、

心を一点に焦点を合わせ、集中して、五感六感をフル活用して全身で体験します。

おやっ?と関心を持って、ワクワク興味を持ってアンテナを張り巡らし、

よく聞き、よく観、よく嗅ぎ、よく味わい、よく触り、よく感じて、

情熱をもって、チャンスを逃さず、サッとすぐ行動に移す、

理想の自分に成りきって振る舞い、活気があって楽しく、

笑顔で堂々と胸を張って生きる






そんな人には努力というものはあり得ません。ちっとも努力を努力と思ってないからです。なぜなら
すべての出会いが歓喜のシャワー

だからです。達成の為に諸難に耐えて辛抱しているわけではないのです。そんな人を
宇宙は、捜してまでも、無限のサポートをしたくなる

ものなのです。もしそれを断ったとしても「何かサポートさせて」と宇宙はウロウロついて来ます。やがて彼は
宇宙と大きな信頼関係の強い絆で結ばれます


すると最初から自分には補填する欠乏など一切無かった

今此処、この瞬間の自分自身に全てが既に存在していた


ということに気づきます。そりゃそうでしょう!彼こそ
円満な宇宙の全体

なのですから!そこが本当のゴールなのです。
由への覚醒とは探求ではなく維持


なのです。それは
今此処に私が在る事の維持


なのです。たったこれだけの事実の証明に宗教や哲学の難しい言葉は必要ありません。ですから遠回りは避けましょう。直接、真実に今すぐ向かいましょう。
今、此処で!