2018年10月9日火曜日

落ち込まない事、調子に乗らない事、一喜一憂しない事

「陽極めれば、陰と成り、陰極まれば、陽と成る。そしてどんな光にもその中に必ず一点闇を含み、闇は必ずその中に一点光を含む」。

これは道(タオ)陰陽二元論の象徴、太極図の深意であります。なるほど見渡せば、明暗、昼夜、男女、生死、善悪、正邪、天地、光影、プラスマイナス、主従、与奪、内外、etcこの世の森羅万象は対局する二つのカテゴリーで構成されています。決して片方単独では成立し得ませんよね。


この事は、人生に於いて、どんなに悲惨な境遇に堕ちようとも、必ず開かれる光の道が必ずどこか一筋有り、また 順風満帆の輝かしい人生にあっても、奈落に通じる落とし穴が必ずどこか一点ある事を、先哲が我々に教えてくれているんではないでしょうか?



 人生様々な出来事が御縁に因って日々時々生じます。時には大地を叩いて涙し落胆する事も、また或る時は天にも登るような大歓喜に満ちる事も・・・


では大地を叩いて涙し落胆する時、一筋の光の道とは何でしょうか?それは「学び」じゃないかなと思うんです。例えばこんなセリフが出てきたら彼は「学び」を得たと言ってもいいんじゃないでしょうか。


「嗚呼、此度、大変な悲惨な目に遭ったが、この出来事は一体私に、何を教えてくれているのだろうか?若し今、このタイミングでこの事が起こらなかったら、今よりもっと深くダメージを受けていたかも知れない。今、悲しみに打ちひしがれ流す涙に因って、私の心はすっかり浄化された。転んでもタダで起きるものか!そうさ、この出来事を宝に変えよう」とか


じゃぁ逆に順風満帆の時の「奈落に通じる落とし穴」とは何でしょう?それはきっと「自惚れ」じゃないかなと私は思います。例えば「俺マジ最高。業界の愚か者どもの誰よりも俺は遙に優れている。だからこそ実際にこのような結果が出たんだぜ!」とかのセリフは要注意ですね。おー危うし危うし。

そもそもあらゆる出来事に遭遇する御縁というものの詳細なんて、人知では到底知り得ませんよね。それは別段、誰かの何らかの意図もなく、起こるべくして、只今起こったという事なんです。そんな本来ニュートラル「0」な存在である「出来事」(空観)に、足を地に付け一喜一憂、右往左往しない姿勢(中観)に先ず立って、その上で、「出来事」を利用して「学び」や「教訓」等を自由に生成(仮観)できる能力を私達は皆、本来持ち合わせているわけですなんですね。有難う御座居ます有難う御座居ます。 有難う御座居ます。


自分の人生劇場を鑑賞する自分









2017年8月4日金曜日

アセンション(次元上昇)とは何か?


こんにちわ。それにしても暑いですね!皆さんお元気ですか?今日は次元上昇という問題に対して、わかり易い例を挙げて、そしてそれをどういう風に解釈して実践するかを述べたいと思いますので、ぜひ最後までご覧下さい。


■ 0次元と1次元の世界の差とは何?

0次元は「点」です。その世界には距離という概念は有りません。従って0次元の人が1次元の人を見る場合。1次元の人がA点からB点に移動してから又、Aに戻ってきた時、一瞬で消えて再び現れた と見ます。

■ 1次元と2次元の世界の差とは何?

1次元の人達がAからBへ移動しています。2次元の人は、混雑しているので、一旦、列から離れて横から人々の行列を、追い越します。1次元の人々は、綱渡りのロープ上から2次元の人が、一瞬で消えて、列の前の方で再び現れた と見ます。一方、2次元の人は1次元の人が地上に描かれたラインの上で順序良く行列していると見ます。





■ 2次元と3次元の世界の差とは何?

又、1階に2次元の人で溢れています。3次元の人は混雑を避けるために、階段で2階へ上って、空いている2階のフロアから伝って1階に下ります。2次元の人は3次元の人が、一瞬で消えて再び現れた と見ます。超能力でいうテレポートとは実はこういう現象なのです。





■ 3次元と4次元の世界の差とは何?

又、次に3次元の人がドラマを演じています。ドラマには、ちゃんとした連続したストーリがあります。1話の次は2話と言う具合に。ドラマに嵌った4次元の人はレンタルビデオショップで3次元の人のドラマのDVDを全巻、最終話まで一気に、借りまくります。4次元の人はDVDを並べて最初は順序良く見ますが、2回目以降は、気に入った順番でランダムに見ます。このように3次元の人が、順序良く並ぶ時間の行列に4次元の人は自由に割り込みします。


■ 4次元の人とは

このように時空を超えた4次元の人の時間は順序良く並んでくれません。スタートもゴールもランダムです。因果、始終とは3次元の人の為の計測指標で、4次元の人にとっては、単に人生の遊具としてあります。では空間上、何処に存在するか不明で、時間をも超えていながら、なお且つ同一性がある人、それって誰何でしょうか?・・・・ずばりそれは「心」です。精神、意思、思考、意識の総称です。それに対して3次元の人は「体」です。3次元の人には空間(位置)と時間(始終があるから)が必要です。でもこの体と心は別者ではありません。心の粗雑で見える部分を体と呼び、身体の精妙で見えない部分が心と名付けているのです。元は一つの命です。命の側面を心と言ったり体と言ったりします。


■ ハイヤーセルフとは
自分より高次元な存在の自分自身、より根源的な自分をハイヤーセルフと言います。世界は高次の人、低次の人が混在して住んでいます。低次の人は空間や時間を越えて消えたり現れたりする高次の人に驚かされ放しです。驚き、怖れ、また憧れ、ワクワクして高次の人は低次の人を高次の世界に誘います。高次の人はさらに高次の人から学び導かれます。例えば身体にとって精神はある意味ハイヤーセルフです。精神にとって生命はハイヤーセルフです。(実は精神の中だけでも凄く階層がありますが)じゃぁ生命(真我)にとってのハイヤーセルフって誰?と言えばここで「神」が出てきます。生きとし生けるものの全てのハイヤーセルフの頂点は「神」、宇宙全体たった一つの存在です。それは森羅万象宇宙法界を動かし、変化せしめている何らかの「力」エネルギー。それを覚り実際に体現された方が「仏陀」、それの我々個々の可能性が「仏性」です。「如来秘密神通之力」云々




■ アセンションと成仏

地球成仏の時代近年ニューエイジ達はアセンション2012年とかフォットンベルトとか大騒ぎしていますが、元々アセンションの語源はキリスト尊者様が昇天されることから由来しています。本来のアセンション(次元上昇)の仕組みは以上のようなものです。高次な人は仏陀と呼び、アセンションとは成仏(仏身を成就する)のことなのです。地球の次元上昇を考える場合、地球も生きていますから「ガイアとしての成仏」とも考えられますし、そこに住む生命たちにとっては「仏国土世間」「草木成仏」として浄化されることになります。また時系列的にもこの一生の間、生きてる間にアセンションを果たす方を「即身成仏」されたと呼びます。別にミイラになるわけじゃありません。

■ アセンション準備と疑似体験

死ねば成仏すると言われていますが、実はその通りです。死自体はある意味本来アセンションです。現に昆虫は卵から幼虫へ、幼虫から蛹へ、蛹から成虫へと現世アセンションしています。それらの節目は全て死です。死がアセンションだという意味について正確に言えはアセンションの最大チャンスです。ところが殆どの人はそのチャンスをみすみす逃しています。何故か?3次元にどっぷり浸かり過ぎて、しがらみを手放しきれず、執着起して輪廻転生してしまうからです。貧しきは幸いなりとはこのことなのです。ですから仏教徒には、その執着を離れる為に、死んですぐ(耳は最後まで生きていますから)僧侶が枕経を唱えてくれます(バルド・トエ・ドル・チェンモの技法)。ですからアセンションを目論む諸兄には「臨終只今なり」というアセンション意識が最も重要です。実際に死に臨んだ場合、一喜一憂取り乱さず、目の前の眩い光りを信頼するべきです。ではこの感覚を生前どう養うかを次回にお話します。




2017年7月19日水曜日

ご先祖様から喜ばれる正しい先祖供養

ご先祖様から喜ばれる正しい先祖供養とは一体、どのように執り行えば良いのでしょうか?


1.先祖供養商法にご注意

 よく世間では「先祖が成仏していない」「先祖の霊が迷って、子孫を祟る」「病気や災害は先祖供養を怠っているからだ」とかエセ霊能力者がイイ加減なことを、私利私欲の為に、無責任に吹聴して回っています。またマスコミも、それを何の検証もせず、無責任に流行させてています。善良な市民はエセ霊能力者の情報に不安をあおられ、踊らされ、駆り立てられて、分けのわからぬまま、エセ霊能力者の「先祖供養商法」の餌食になています。





2.死んで成仏するの?

 そもそも「成仏」とは仏法の概念です。まず仏教徒以外には無関係です。神道の方、キリスト教徒の方は成仏云々で不安になる必要がありません。仏教徒の方はご存知のように「成仏」は「仏様に成る」つまり「ブッダ目覚めた人に成る」ということで死とは無関係です。お釈迦様は死んで仏に成ったのではなく、因果の理法を覚られて目覚めた人・ブッダになれたのです。死んで仏に成るのだったら菩提樹の木の下でお釈迦様は想しながら死んだことになります。今の仏教というのは死人の説いた教えになります。どう考えてもおかしいですよね。





3.先祖が祟る?

また「先祖が祟る」とはどういうことですか?それは有り得ません。親として自分の子や孫をいじめるわけが無いじゃないですか?虐待ですか?また「病気や災難」の理由が「先祖供養の怠慢」とは一体どういう因果関係なんでしょうか?まぁ、風吹けば桶屋が儲かるぐらいの長いスパンで、回りまわっての何らかの作用というのが、無きにしも有らず、でしょうが、実際のところ、どうなんでしょうか?誰も正確に検証することができません。それをいいことに日本人の善良な風習に便乗しているのが、許せないところでありませんか。



4.先祖とは誰?

私たち自分自身が現に今、此処に存在するのは、ご先祖様がいらっしゃったお陰です。そのご先祖様に何とか感謝の気持ちを表したいというお気持ちは 大切にしたい美しい日本人の心です。さて、では、ご先祖様とはどなたでしょう?曾おじいさんとか曾々おばあさんとか浮かびますが、でも・・・・一番身近な先祖はズバリ、お父さんとお母さんですよね。





5.先祖供養のいろはの「い」とは実は○○○

昔から父の恩は山よりも高く母の恩は海よりも深かしと言います。故に「いの一番、感謝しなくてはならないのはお父さんとお母さん」ですね。ですから、先祖供養のいろはの「い」とは実は親孝行です。「親孝行したいときには親は無し」と昔から言いますが、あれは本当ですよね。ご両親がご存命で、お元気なうちに、どうか勇気を出して、照れくさいのを辛抱して、素直に感謝の心を、あなたのその御声で、「ありがとう」と、言葉にしましょう。「ありがとうございます」の言葉の真意は「有得ないような奇跡の存在が、現に今此処に居らっしゃる」という実に深い深い真言(マントラ)言霊です。たとえ棒読みのような形だけでも効果絶大なのです。





6.生きている親への最高の孝養とは(鏡の法則)



近年「鏡の法則」という本がベストセラーになりました。本の宣伝コピーは「読んだ人の9割が涙した! インターネットで爆発的にひろがっている、愛と感動の真実のストーリー。」ということで、そのあらすじは・・・・主婦・栄子は、息子がいじめにあっているのに悩んでいた。ひょんなキッカケから紹介を受けたコンサルタント矢口氏に相談したところ、『あなたが大事なお子さんを、人から責められて悩んでいるということは、あなたが、誰か感謝すべき人に感謝せずに、その人を責めて生きているからなんです』と告げられたそして、その解決策として伝授した方法とは『お父さんに感謝できること』と『お父さんにあやまりたいこと』の2つの紙に書き留めたことを、棒読みのような形だけでいいから、電話で読んで伝えるだけでOKです。と、言われたとおり実践した栄子さんのお父さんに何が起こったか?・・・・・・受話器の向うで号泣して泣き崩れています。あの厳しかったガンコ親父が・・・そしてこの瞬間から栄子さん自身と、栄子さんを取り巻く家族の運命がガラッと変わります。親子関係、夫婦関係がみるみる改善されます。夫婦、親子、兄弟、親戚、友人とどんどん良質な人間関係が拡充していきます。実はこの話には私自身も体験があります。



7.実体験から

私、法喜も幼い頃、両親が離婚しまして、母子家庭として女手一つで育ててくれました。父と生き別れて実に35年の歳月がたっていたある日、「神奈川県の相模原市という所に住んでいて、今、病院に入院している」と役所の方が、ご親切に調べに調べてご連絡くださいました。35年も経ていますので、今更、母と私たち兄弟を捨てた父に会う気にもなれませんでした。




しかし妻はこれは何かの縁であなたが親孝行できる最後のチャンスになるから、今すぐ会いに行こうと勧めてくれました。妻の誠意ある志に感動していくことになり、会えました。35年ぶりの再会です。私は仏教徒ですから、恨み、つらみより「まずは、親への報恩感謝を先としよう」と思い次のように言いました。「お父さん。私はあなたの下に生れて、今、こんなに幸福に暮らしております。これはすべて、あなたが居たお陰です。本当に心から感謝しております。ありがとうございます。」と、



棒読みだったかも知れませんが、ゆっくりと、かみ締めるように申し上げました。すると、やはり鏡の法則通り、彼は号泣とまではいかなくとも、ポロポル大粒の涙を流しておりました。そして、安心したのかその一週間後に静かに他界しました。ギリギリ間に合いました。あの時、妻に背中を押されなかったら、私は親不孝者で終わりました。それでは仏教徒失格です。妻の救いには一生感謝しております。



8.亡くなった親への最高の孝養とは(追善回向)
では、残念ながら、もう既に亡くなられたご両親、ご先祖にはどんな親孝行が最高なのでしょうか?誰でもそうですが、してもらいたいことを、してくれるのが一番うれしいはずですよね。サプライズ・・・・的な。では、ご先祖様が我ら子孫にして欲しいこと、望むことって一体何でしょうか?・・・・・



では、そのヒントになる質問をひとつ。一度観点を換えて、逆にもしあなたが「親」なら「子」に何をして欲しいですか?・・・・・

当然、「本当の幸せになって欲しい」ですよね。ご先祖様も同じです。「子々孫々、本当に毎日、楽しく、幸せであってくれよー」と願っておられます。ですから、私たち子孫が現実に幸福になって、次の言葉をかけてあげる。そのこと自体が、最大のご供養になります。


「お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、

そしてご先祖様。私はあなた方の下に生れて、

今、こんなに幸福に暮らしております。

すべてはあなた方が居られたお陰です。

本当に心から感謝しております。

ありがとうございます。」







これが正しい先祖供養です。どうですか?全然、オカルト的ではないでしょう? だれでも昨日は子孫と呼ばれてましたが、必ず明日は先祖と呼ばれます。子どもから言われて、本当に嬉しい言葉をかけてもらう事が最大のご供養です。反対に、子供が辛そうに毎日涙を流していたら、親としてとても心痛ですよね。できたらかわってあげたい・・・というような悲しい気持ちになります。しかもどうすることもできません。励ましの声もかけてあげられない。寄り添って肩を抱いてあげることもできません。ただ心配そうにたたずむだけです。


ですから私たちは「絶対、この世で崩れることの無い、無条件の真の幸福」になって、ご先祖様に元気で、明るくご報告できるようでなくてはなりません。ご先祖様に、心配かけまいとして無理に、カラ元気をだしてツクリ笑顔を繕っても、子孫の心の中の隅々の、細かい悲しみまでも、全てお見通しです。それはなぜか。死者は身体は不自由ですが、心は自在です。たとえば「千の風になって」の歌にもあるように自在に遍満していけるのです。


9.絶対、この世で崩れることの無い、無条件の真の幸福とは


では「絶対、この世で崩れることの無い、無条件の真の幸福」とはなんでしょう?幸福とは例外なく、万人が求める究極の人生の目標であります。誰もが、僅かな儚い幸せを西へ東へ求めては、必死でしがみ付き、果ては目の当たりに崩れ去るのを慌てふためき、悲しみに悶絶します。「禍福は糾える縄の如し」と言うが如く人の幸・不幸は縒って作った縄の目のように、交互に訪れ、決して幸不幸いづれかのみが連続して表れることは決してありません。そんな時には「縄は糾って、互いが補強仕合う事に依って強い力を保持する事が出来るのです・・・・・・・」と、心に言い聞かせ傷ついた自分を癒します。



でも一体、この世に「どんな時代、どんな環境下にあっても永久に崩れる事なき、絶対的な幸福境涯」って本当にあるものなのでしょうか?人類始まって以来、誰がこの大いなる問いの解答を実際に手にすることができたでしょうか?釈尊?キリスト?竜樹菩薩?パドマサンヴァババ?サティアサイババ?日蓮大聖人?池田先生?そうかも知れませんね・・・・・・で、あなたは?聖者への論評はあまり意味がありません。譬えば、お隣の預金通帳を一所懸命、穴が開くほど観て調べても終にあなたには一銭も入りません。 しかし、「永久に崩れる事なき、絶対的幸福」は確実に厳然として実在します。



10.「絶対的な幸福」とは、「自分が今、此処に在る」という絶対的な確信


あなたの「自分が今、此処に在る」という絶対的な確信は、この宇宙と自分自身の生命が同一の根源のものであるとの確証に変わります。それにより、外部環境の出来事に心身が一喜一憂、右往左往されず、あらゆる苦難を「生命の次元上昇の為の学び」に自由に転化し、克服していくことのできる境涯になります。

そうなったら、あなたは生きる事自体、存在すること自体が心の底から、楽しくワクワクする状態になります。鳥や虫は歓喜の詩を歌い、花はパッと咲き乱れ、魚はピチピチ飛び跳ね、雨は土塊を砕かず、自分の周りを空も海も陸もグルグル廻り、神々は上着を脱いで振り回し、歓声をあげてあなたに抱きつきます。


11.「絶対的な幸福」とは「無条件の幸福」

また「絶対的な幸福」とは換言するなら「無条件の幸福」です。経済的な豊かさや社会的地位、やりがいある仕事や仲間、健康や愛情、そしてグルや信仰心というものは永遠普遍のものではなく、究極で絶対的な幸福とはいえません。幸せになるために何かが必要であるような幸せは本当の幸せではありません。条件に基づく幸福は右往左往する無常の幻想です。

すなわち、私が幸せになる為に、お金が要る、仕事が要る。家が要る。精神的満足が要る。恋人が要る。愛が要る。悟りが要る。信仰が要る。言葉要る。世界が要る。肉体が要る。心が要る。・・・・・・・・・例えば創価学会員さんには池田先生や戸田先生のようなカリスマ指導者が要るのです。又一方、池田先生や戸田先生も自論を論証する文献や権威が要るのです。それは共に・・・「自分が居ない」から「何かが要る」のです。


最初はそれでもいいんです。どんどん求めてください。どんどんお金、地位、名誉、やりがい、仲間、愛、信仰、真理、心の平安
しかし結果は・・・・・・・・一周回って元に位置に還ります。いろんな映画を観て泣き笑い感動してワクワクしながら家に帰ります。




12.実は幸福とは真のあなたの事

法華経の法華七喩は実は全て此の事を諭しているのです。火宅は自分以外への追求です。長者は高次のあなたです。三草二木はあなたの側面です。化城とはグルと教えです。衣裏珠も髻珠もあなたの「魂=真我」です。幸福はあなたの中にあります。高次のあなたは良医です。生死はあなたが世界へ放つ慈悲の方便です。すなわちあなたは永遠の存在です。

暑い真夏の炎天下、あなたは涼しい木陰を離れて、歩き回り元の木陰に返って来ます。決して無駄ではありません。木陰の有り難さをもっと強烈に体感したかったあなたの作戦のひとつですから。そして最後に必ずあなたは言います。あの散る散る満ちるの有名なセリフを・・・「なんだ、あれが僕たちの探している青い鳥なんだ。僕達はずいぶん遠くまで探しに行ったけど、本当はいつもここにいたんだ。」と。このことを最初から解ってる斎藤一人氏は呟きます「方位方角おかまいなし。私のいるところが、しあわせなんです」


13.すべての事象はそこへ還る為の巧みな方便

幻、夢、冗談、洒落、ゲーム、巧みな手段何と呼んでもかまいません。ココだけは押えて置いてください。すべては方便だという事をそうしたら、そうしたら自然に辿り着きます。「私は 今、此処に在る」の確信に。きっとうまくいきます。ですから、
もっと感じたことを思うが侭に、自分の言葉で語りましょう。自分の意思で行動しましょう。せっかくのあなただけのあなたの人生なのに一体、誰に遠慮しているのですか?

2017年4月9日日曜日

酔っ払いの人生

ベロンベロンに酔っぱらうほど、仕事に没頭して

ベロンベロンに酔っぱらうほど、熱狂的に遊び

ベロンベロンに酔っぱらうほど、瞬間瞬間にワクワクする

「酔っ払いの人生」それが今、此処に生きるということだと思います

「人生の酔っ払い」には酒もドラッグも全く要りません

もう既に酔っていますのでハイ・・・・・ウィ


2017年3月27日月曜日

幸せになる為に、まず最初にするべき事




幸せになる為に、まず最初にするべき事は
「自己愛や自尊心でハートを一杯にする」ことだと思います。


自分自身のハートに

「自分は宇宙にとって、唯一無二、
  かけがえないない、貴い存在であるんだ」

という、自己愛や自尊心を、来る日も来る日も
一滴も零さず注意深く、気長に注いでいくと
やがていつの日か、それがハートに満ち満ちて
満タン状態に溜まります。



そしてある日、最初の一滴が零れ落ちます。
ハートから零れ落ちるその雫の軌跡を観て
初めて本当の自分以外の世界を識る事になります。
それはどういうことかと言いますと・・・・


ハートが自己愛で満たされたら一体どうなるのか!?



見事に咲き乱れる花々。
  その花達が表現したがっていた
   その形状に気付けます。


また自ら芳しく香って
生き物たちを導きたがっていた方向に気付けます。


美しく奏でる鳥達のミュージカル。
「生命の賛歌」の歌詞がはっきり聞き取れます。


甘く柔らかい果実の味が
「世界中の善意が凝縮された結晶」であることを
体全身でじんわり感じます。


雨も風も暖かい太陽の光りも、星の瞬きも
全部「慈悲」で構成されているだなと識り
思わずひざまずき涙します。


芋虫が蛹へ、蝶へと姿を変える事で
身をもって見せて教えてくれる。
その究極の生き方の真意に気付けます。



身体の中心を貫く激しい白色の光の輝きで、
眩しすぎて、もはや目を閉じていられません。


世界中のありとあらゆる存在たちが
輝くような満面の笑顔で順番にハイタッチしてくれます。
そして延々と「愛してるよ」「ありがとう僕もだよ」の
挨拶の嵐が続きます。



今まであんなにヒヤヒヤ・ドキドキして
泣きわめき、怒りに震え、怯えた人生が、
昔作っておいて、すっかり忘れていた
手の込んだ自作のコメディだったんだ
というネタバレに腹を抱えて大笑いします。


すべては 「自己愛や自尊心でハートを一杯にする」
ことから始まると思うんです。



2016年12月13日火曜日

誰にも迷惑をかけずに安らかに死ぬ方法



生きるのが辛くて、もう疲れた。死にたい。消えてなくなりたい。でも家族に迷惑かけたくない。「誰にも迷惑をかけずに安らかに死ぬ方法」があれば・・・・あります。でもその前に残念ながら、あなたは既に生きていない。生きた人間の目をしていない。死ぬためには、もう一度生きる必要があります。


死にたい
死ぬしかない
死にたくなる
死ぬには
死ぬに死ねない
死ぬにはどうしたらいい
死ぬにはどうすればいい
死んだらどうなる
死んでしまいたい
消えたい
消えてしまいたい
消えてなくなれ
逃げたい
毎日がつまらない
毎日が楽しくない
毎日が辛い
生きるのが辛い
生きるのがめんどくさい
生きるのが怖い
生きるのが下手
生きるのがしんどい
生きるのが苦しい
生きるのが疲れた
生きるのが嫌
生きたくない
生きていたくない
生きていても楽しくない
生きていても意味がない
生きていても辛いだけ
生きていてもしょうがない
生きることに疲れた
自分なんて
自分なんていらない
自分なんて死ねばいい
自分なんていなくてもいい
自分なんて嫌い
楽しいことがない
面白くない
辛い
疲れた
いいことがない
たすけてたすけてたすけて
しにたいしにたいしにたい
なぜ生きる
なぜ生まれてきた
何もない
何もしたくない
やる気ない
やる気なし
やる気なくなった


2014年10月9日木曜日

在家仏教とは

問います。
与那観!坊さんってどう?日夜、酒肉を貪ってSEXに興じて、さして教学もなく、俗人から仏道に関する質問されても逆切れしたり、逃げたり・・・ってそれ、ただの法事屋の禿げ頭ですよね。そんな人たちが本当に仏教界に必要なんですか?今や仏教学の知識もグーグル先生に聞けばいいし、これからの仏教はやはり在家仏教が主流だと思うのですがどうですか?




 答えます。

あはははは、「在家仏教」その言葉自体が既に自己破綻していますね。「病人医療」「患者医学」と言っているのと変わりません。病人に医療が施せるなら最初から「病人」と「医師」は不要ですね。


第二点目、教主釈迦牟尼世尊、竜樹菩薩、天台智者大師、伝教大師、日蓮大聖人、各々二祖、三祖・・・・全部僧です。僧を否定するなら教主から否定することになりますから教えと教団自体が成り立ちません。





あとはあなたの価値観の問題です。あなたが「仏法」を信仰としてではなく単に東洋哲学または歴史文学的な自己啓発ととらえるならば、あなたにとって僧は不要かも知れません。


但しその際はそのあなたの信仰体系を世間に「仏法」「仏教」と決して名乗ってはいけません。「仏法風私見」「仏教的私見」と自由に名乗って下さい。それは仏の教えではないからです。仏の教えで無いものを仏の教えと偽る事により、後から来る何も知らない求道者が歩むべき本来の道への障害となって極めて大きな罪になります。求道者を迷わせる行為は魔の所為と呼ばれます。そのことを言論の自由、表現の自由とか言わないで下さい。暴言の自由や虚偽の表現の自由はありません。




しかし「仏法・仏教」とかの表現を回避するなら全く自由です。○○法、△△教とか、あなたが自負する優れた信仰体系なら、何一つ問題ありません。何も敢て古めかしい仏教を引き合いに出す必要もありません。自信を持って堂々と○○法、△△教、□□宗と名乗って下さい。






じゃあ、なぜ敢てそんなに仏教にこだわるのですか?自問して探求してみて下さい。結局それはあなたが仏道の真の求道者だからなのです。ですから是非、正直に正法正師にご縁下さい。正直に願っていればきっと遭えます。あなただけの運命の正法正師に。そうすれば一切の疑問が嘘のようにスッキリ晴れ渡ります。何故なら正法正師が仏様にお目にかかる機会をあなたの為に作って下さるからです。